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オーリンズ郡 (バーモント州) : ミニ英和和英辞書
オーリンズ郡 (バーモント州)[おーりんずぐん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [ぐん]
 【名詞】 1. country 2. district 
バーモント : [ばーもんと]
 (n) Vermont, (n) Vermont
: [す, しゅう]
 (n) sandbank

オーリンズ郡 (バーモント州) : ウィキペディア日本語版
オーリンズ郡 (バーモント州)[おーりんずぐん]

オーリンズ郡()は、アメリカ合衆国バーモント州の北部に位置するである。北はカナダケベック州に接している。2010年国勢調査での人口は27,231人であり、2000年の26,277人から3.6%増加した〔Quickfacts.census.gov - Orleans County - accessed 2011-12-06.〕。郡庁所在地ニューポート市(人口4,589人〔American FactFinder - Newport, Vermont - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡で人口最大の都市でもある。ニューイングランドの他地域と同様に郡政府にはあまり権限が無い。州政府が支配している行政サービスをグループ化し、配分する手段を採っている。
== 歴史 ==
オーリンズ郡は北東王国と呼ばれるバーモント州北東部の先コロンブス期からの歴史を共有している。
1753年、アベナキ族が身代金を払ったジョン・スタークを連れてメンフレマゴグ湖に下り、現在ニューポートとなっている場所の岸に来た。彼らは南東に向かい、ニューハンプシャーの家に戻った。
1759年、ロジャーズ・レンジャーズケベックのセントフランシスを攻撃した後で、この地域を通って撤退を強いられた。復讐心に燃える追跡者を混乱させるために、メンフレマゴグ湖の東岸で二手に分かれた。1隊はクライド川を辿った。もう1隊はバートン川を南に辿り、クリスタル湖出口の滝まで行って、魚を捕まえることができた。そこからは南の山を越えてパサンプシック川バレーに出た〔, page 1〕。
イギリス国王は1774年のケベック法に従い、2つの植民地であるカナダとアメリカの境界をはっきりさせるために測量士を派遣した。その境界は北緯45度線が想定されていた。しかしその結果は意図された線の0.75マイル (1.2 km) 北の曲がった線になった。これは1842年のウェブスター=アッシュバートン条約によって、曲がった線を肯定する形で解決された。オーリンズ郡の場合は特にダービーライン村がカナダに返還されずに済んだ。
1779年もしくは1780年、モーゼス・ヘイズン将軍がニューベリーからハードウィック、グリーンズボロ、クラフツベリー、オールバニを抜けてバーモント州北部のヘイズンズノッチに至るベイリー・ヘイズン軍事道路を建設した。この道路の目的はカナダに侵攻するためだった。その目的で利用されることは無かったが、地域の入植には効果があった。しかし、数少ないアベナキ族以外の者がこの原生地に住むようになるまでに5年以上がかかり、それも夏の間だった。

1778年、バーモント(当時はバーモント共和国)は2つの郡に分けられた。1781年、議会が最北の郡であるカンバーランド郡を3つに分け、新しいウィンダム郡ウィンザー郡はほぼ現在の位置に置かれた。北側の残り部分はオレンジ郡と呼ばれた。オレンジ郡の範囲はニューヨーク植民地時代の1770年3月16日に組織されたグロスター郡に相当し、ニューベリーが郡庁所在地だった。
バーモント共和国は1780年11月6日にエベネザー・クラフツと63名の同調者に町の設立を許可した。町名は1790年10月27日にエベネザー・クラフツを称えてクラフツベリーと改称された。クラフツは郡の最初期入植者だった〔Gazetteer of Lamoille and Orleans Counties, VT.; 1883-1884, Compiled and Published by Hamilton Child; May 1887〕。
1783年9月3日、パリ条約が調印された結果としてアメリカ独立戦争が終わり、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。バーモントとカナダケベック州との国境は北緯45度線とされた〔Van Zandt, Franklin K. ''Boundaries of the United States and the Several States.'' Geological Survey Professional Paper 909. Washington, DC; Government Printing Office, 1976. The Standard Compilation for its subject. P. 12.〕〔Parry, Clive, ed. ''Consolidated Treaty Series.'' 231 Volumes. Dobbs Ferry, New York; Oceana Publications, 1969-1981. Volume 48; pp. 481; 487; 491-492.〕。
1791年から1793年、ティモシー・ヒンマンが、現在ヒンマン開拓道路と呼ばれる道路を建設し、グリーンズボロから北のダービーとカナダを結んだ。
バーモントが州に昇格した後の1792年11月5日、議会はチッテンデン郡とオレンジ郡を6つの郡に編成しなおした。すなわち、チッテンデン郡、オレンジ郡、フランクリン郡カレドニア郡エセックス郡、オーリンズ郡だった〔。郡名をフランスのオルレアンから採った理由は記録されていない〔Orleans County, Vermont: History and Information 〕。
1797年に新しくジェファーソン郡〔later called Washington County, Vermont November 8, 1814〕が設立された時にオーリンズ郡の領域が削られた〔。
1810年、ランナウェイ池が突然バートン川バレーに溢れ出し、その水量は 1,988,000,000 米ガロン (7,530,000 m3) となり、オーリンズ郡にとって有史以来の大自然災害となったが、人命は1人も失われなかった。
米英戦争中の1813年12月27日、近くのケベック州スタンステッドからイギリス軍民兵隊の侵略を受けた。これはダービーの防備が無い兵舎を破壊し、物資を調達するためだった。けが人は出なかった。この侵略まで、ニューイングランドの大半と同様に地元住民は戦争に反対していた。多くの者はイギリスに物資を密輸していた。この侵略の後では、その隣人に対する支援の心が消滅した〔Vermont: Records of the Governor and Council of the State of Vermont ... - Google Books 〕 。
1816年6月、郡内に1フィート (30 cm) の雪が降り、農作物に被害を与えた。この1816年は夏の無かった年と呼ばれるようになった〔Orleans County History | Old Stone House Museum 〕。
1835年10月にラモイル郡が設立されたとき、郡内のイーデン、ハイドパーク、モリスタウン、ウォルコットの町が移管された〔。
1858年、郡内のバートン町がカレドニア郡シェフィールド町から三角形の土地を譲り受けた。その中にはメイ池の全体、クリスタル湖の南部全体、サウスバートン村が含まれていた。
南北戦争のとき、バーモント第4歩兵連隊D中隊の大半はオーリンズ郡から徴兵された。
連邦政府からの要請に応えて郡内からも志願兵が北軍に加わった。1861年9月、彼らはバーモント第6歩兵連隊に入隊し、D中隊を構成した。この連隊はバーモント第1旅団に配属された。
1864年、バーモント第11歩兵連隊の兵士267名がオーバーランド方面作戦の時にウェルドン鉄道で捕虜になった。イエルサレム木板道路の戦いと呼ばれている。これらの捕虜がジョージア州のアンダーソンビル刑務所に連れて行かれたという情報が入ると、地元の大きな心配事になった。その刑務所は当時ですらその酷い生活条件で知られていた。捕虜の中の54人がオーリンズ郡出身だった。その多くは刑務所で死んだ。
南北戦争の前からフランス人移民が郡に入ってくるようになり〔The French Settlement Of Vermont: 1609-1929 〕、戦後も続いた。
バーモント州の他地域と同様、オーリンズ郡からは従軍できる男性の4分の1が南北戦争に参戦した。その内の10%が死んだ。帰って来た者も障碍者になって農作業を続けられない者がいた。その多くは志願兵として出て行った者だった〔vermont (2011年4月22日時点のアーカイブ)〕。1860年代半ばから多くの農場が売りに出され、農場の価格が急落した。近くにいたフランス系カナダ人がこれをチャンスにした〔French Canadian Emigration to the United States, 1840-1930 - Readings - Quebec History 〕。その結果、州内、特に北部で生まれた農場労働力が他州に転出し、20世紀への変わり目まで多くの移民が入って来た。
オーリンズ郡はその設立以来人口が増えていたが、1900年から減少を始めた。1960年には20,143人と底を打った。それ以降は増加に転じている。
1903年オーリンズ郡はメールオーダーで監獄を購入した。年間約350人を収容した。1973年のロックコンサートには観客の落ちこぼれで、一時に140人を収容したこともあった。1995年にこの監獄は閉鎖された。現在はアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている。
1903年、州法で各町はその領域内で酒類を販売してよいかを決められることになった。1905年まで酒類販売を認めた町は無かった。1903年以前の州法でアルコールを禁じていたわけではなかったので、その変化はそれほど急激に起こらなかったが、この法は不規則に執行された〔。
1967年、科学者のジェラルド・ブルがそのスペースリサーチコーポレーションのために、カナダ国境の直ぐ北にあるハイウォーターに研究所を建設した。その敷地は郡内のノーストロイまで掛かっていた。ブルの意図は重火器を使って研究用パッケージを衛星軌道に乗せることだった。
2004年8月14日と15日、バンドのフィッシュがファイナルコンサートと銘打ったものをコベントリーで開催した。このコンサートは単一の行事として、この町では最大の観衆を集めた。7万枚のチケットが販売され、集まった観衆は州の歴史でも最大級のものになった。
郡内にはアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定されている場所が23か所ある。
2008年、バーモント州は、郡内のオールバニ、クラフツベリー、アイラスバーグ、ローウェル、ニューポートタウン、トロイ、ウェストフィールドの町、および隣接するラモイル郡とフランクリン郡の6つの町に、1995年から2006年まで行った健康度調査の結果として、ベルビデア山にあったアスベスト鉱山から半径10マイル (16 km) 以内の住人は、通常よりも高い石綿肺症に罹っていたと発表した。州政府と連邦政府はこの問題の検討を続けている〔A Cross-Sectional Study of Asbestos-Related Morbidity and Mortality in Vermonters Residing Near an Asbestos Mine (2010年5月27日時点のアーカイブ)〕。この調査に対する批判として、人口16,700人の中から1995年から2005年までに石綿肺症に罹って死亡した未詳の患者3人に基づいているという声が上がった。2009年4月、バーモント州健康省は、アスベスト鉱山に関わる死者は全て職業的な暴露が原因だったことが分かったと公表した。この報告書では、鉱山の近くに住む住人は、州内他地域の住人よりもアスベストが原因の病気リスクが高くないとも結論づけている〔asbestosgroupminesite 〕。しかし、この鉱山跡は現在も除染の必要性がある。2009年、除染の費用は3億米ドルと見積もられた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オーリンズ郡 (バーモント州)」の詳細全文を読む




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